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エトルリア文明について
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エトルリア文明について


はじめに

トスカーナ州について語ろうとするなら、トスカーナ州がエトルリア文明の地であったことを避けて通るわけにはいきません。

ローマがまだ単なる都市国家のひとつだった紀元前8世紀から同3世紀にかけて、エトルリア人による連邦都市国家体制がイタリアの中心部で高度な文明を築いていました。エトルリア文明は現在のトスカーナ州にあたる地域を核にして、最盛期の紀元前750〜500年には北はアペニン山脈を超えてポー平原に、南はカンパニア州(州都ナポリ)に至るまで広がり、したがってローマは当時、エトルリアの一都市に過ぎなかったのです。

古くからエトルリア人はその裕福さで知られ、宴会と音楽を好み、贅沢を愛し、しかし極めて信心深い人々、というのが古代からのエトルリア人への評価でした。彼らは高度な文字文化を持っていましたが、それらは文献として残っていません。エトルリアを吸収したローマの体制側が意図して隠滅したというのが通説です。わずかに石碑や墳墓に刻まれて残された彼らの文字は非インド・ヨーロッパ語族とみなされ、それらエトルリア語の解読はいまだ十分になされていませんし、エトルリア人社会における女性の地位がローマやギリシャとかけ離れている点もあいまって、今もなお謎の存在としてエトルリア文明はあります。

北からは異民族が侵入し、紀元前3世紀、ついにローマに同化され消滅したエトルリア文明ですが、ローマにおけるエトルリア文明の痕跡は明瞭です。共和制ローマに移行する前の王政ローマの7人の王のうち、3人はエトルリア人でした。低湿地ローマの土地を排水し、ローマを湿地から解放したクロアカ・マキシマ(Cloaca Maxima =「最大の下水」、紀元前6世紀ごろ)の建設はエトルリア人技術者の手によるものでした。そしてローマ王の権威づけも、結局はエトルリア人のしきたりをそのまま受け継ぐことで成り立っていたのです。

エトルリア文明が消滅した後、それがいかなるものであったのかについて、改めて関心を呼び起こす出来事がすでに歴史に刻まれています。ローマはエトルリア人の都市を同化というかたちで自国の支配下に収めていきましたから、エトルリア人の子孫はトスカーナの地で命を繋いでいったのだと考えることができます。ではトスカーナという地方を見てみましょう。そこはヒューマニズムの揺籃、ルネサンス発祥の地であり、ダンテ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョット、ベルニーニ(の父)、ミケランジェロ等々の人物を輩出した土地です。これらの点をエトルリア文明と結びつけても、あながち的外れではないと思われます。ギリシャは別として、西洋文明の原点をローマではなくエトルリア文明に求める論者がいる所以のひとつでもあります。






エトルリアの都市と勢力範囲

はじめアルノ川とティヴェレ川の間に展開、最盛期の紀元前750〜500年には、北はポー川流域のポー平原まで、南はカンパニア州まで勢力範囲を拡大した。




エトルリアの卍模様のペンダント

紀元前700〜650年、ボルセーラ(Bolsena)出土、ルーブル博物館所蔵。ボルセーラは、エトルリアの首都Volsiniiの候補地のひとつ。




エトルリアのチャリオット

紀元前530年頃。モンテレオーネ・ディ・スポレート(Monteleone di Spoleto)出土、メトロポリタン美術館所蔵。1902年に一農夫によって発掘されたこのチャリオット(二輪馬車)は数奇な運命をたどってニューヨークにたどり着いた。

政治形態

依然として首長と部族からなっていた周囲の人々に先んじて、エトルリアは国家としての社会組織を完成させていました。都市国家を基本単位として、それらが連合して国家を形成するという方法です。エトルリアを構成する都市国家の体制は紀元前6世紀には、絶対的君主制から複数の指導者による(共和制ローマのような)寡頭制民主政に変化したと信じられてます。その都市国家群が形作る連邦国家は3つあり(トスカーナ、トスカーナ以北、トスカーナ以南)、ひとつの連邦は12の都市国家を含むこととなっていました。12という数字は宗教的な理由からだと考えられています。年一度、連邦を構成する各都市の代表は聖地に集まって軍事や政事に関して会議をおこない、連邦の長を選びました。

エトルリアの国家統治の方法は本質的に神権政治です。政府はすべての部族や氏族の組織を超えた支配的な権威とみなされ、生と死の権限を内包し、この権威に付き従う都市国家は共通の信仰により連合していたのです。そしてエトルリア人の信仰の構造は内在的な多神教でした。すなわち、すべての目に見える現象は神の力の顕現であり、神の力は下位の神々に細分化されて常に人間界に作用しており、人間社会の出来事を有利に運ぶよう、神々を思いとどませたり、促したりできるものと考えられていました。

ローマがエトルリアを同化したかなり後に、小セネカ(ローマ、紀元前1年頃〜紀元65年)はローマ人とエトルリア人の違いをこう述べています。 「稲妻の放出は雲の衝突の結果であるとわれわれが思うのに対し、彼らは雲は稲妻を放出するために衝突するのだと考える。というのは、彼らが信じるところでは、すべては神に起因するのであって、物事はそれらが起きたかぎりにおいて意味を持つのではなく、むしろ意味を持っているに違いないから、それら物事は起きるのである。」






オリヴィエト

エトルリアの首都=聖地の候補地のひとつ、オリヴィエト(Orvieto)。もうひとつの候補地ボルセーラの北東13kmに位置する。




オリヴィエトのエトルリア寺院跡

紀元前5世紀初頭に建立され、紀元前3世紀はじめまで使われたと想定されている。1823年に偶然、発見された。

エトルリア人の起源

言語・習慣や社会制度の異質性からだと思われますが、エトルリア人の起源が話題になっています。トスカーナ地方においてエトルリア文明に先立つヴィッラノーヴァ文明(紀元前12世紀〜)から分岐したという説がある一方で、近東からの移民説が古代から現代に至るまで幅を利かせてるのです。古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前485年ころ〜紀元前420年ころ)は、エトルリア人が小アジアの国家、リュディア(現トルコ西部)からやって来たという伝説を記しています。それは当地の飢饉によるものであり、人々が食料不足を忘れるようにと数々のゲームを考案していった経緯に続けて、以下のよう書いています。

「…いくらかたっても飢饉は改善されず、そこで彼らはくじ引きをして、住民の半分は次の日にゲームをせずに食事をすることとした。こうして彼らは18年間を切り抜けたが、事態は改善されず悪化していった。このため王はすべてのリュディア人を2つのグループに分け、くじ引きによってどちらか一方が移民することとし、自身を居残り派の長に、彼の息子ティレヌス(Tyrrhenus)を出発部隊のリーダーに指名した。離郷くじを引いた人々はスマルナ(Smyrna、現イズミルの一部、トルコ西部、エーゲ海に面する)に下り、船を建造して持ち物をすべて積む込み、生き延びる土地を求めて船出した。多くの島々を通り過ぎた後、イタリアのウンブリア(トスカーナ東隣り)に到着し、そこで都市を建設、指導者である王の息子ティレヌスにちなんで、自らをリュディア人ではなくティレニア人と称し、現在に至るまでそこに住んでいる…」(注:ここでティレニア海の名前の由来が語られています。)

しかし同様にリュディア起源を否定する論議が、これも古代から提起されています。ギリシャの歴史家ハリカルナッソスのディオニュシオス(紀元前60年〜紀元前7年以降)は、ティレニア人(=エトルリア人)の言語と文化はリュディア人のそれと何ら共通するものがないとしてリュディア起源に反対しています。

エトルリア人起源についてはその他、紀元前13〜14世紀の海洋民族に求める説など様々ありますが、現代においてはDNAを使った調査も多く行われています。当時のDNAを採取し調べた結果は、DNAの損傷のためもあってか一定していません。なかで現代人のDNAを利用した研究では興味深い結論が導出されています。2007年、トリノ大学のアルベルト・ピアッツァ教授のチームは、トルコ、イタリア北部、ギリシャのレムノス島、イタリアのシチリア島とサルディーニャ島、それにバルカン南部の住民についてDNAを比較しました。結果、トスカーナ住民のそれは周囲のイタリア人と著しく異なっていること、トスカーナのなかのムルロ(人口約2,000人の町、シエナの南約1.5㎞に位置する)とヴォルテッラはトルコと最も近い関係にあること、特にムルロにおける遺伝子の一変体はトルコだけが共有することがわかったのです。

イタリアの別のチームは、トスカーナの牛のDNAが、イタリアの別の場所で通常見られる牛とも、ヨーロッパ全域の牛とさえも異なっていることを発見しました。そのDNAは近東で見られる典型的な牛のそれと類似していたのです。古代において移民した多くの種族は家畜を伴って移動するのが普通でした。この牛のDNAに関する研究は少なくとも、エトルリア人の祖先となる人々がアナトリア、あるいは近東の別の場所からイタリアに来たことを示唆しています。






エトルリアの母子像

紀元前500〜450年。




リュディア地図

紀元前6世紀、最後の王クロイソス時代のリュディア。赤線は紀元前7世紀の境界。リュディアは紀元前7世紀から紀元前547年まで王国として栄えた。

ライフスタイル

エトルリア人の生活ぶりをエトルリア人自ら表現したものとしては、墳墓に納められた様々な備品と墳墓の壁に描かれた壁画にほぼ尽きるというのが現状ですが、残された墳墓は個人のものではなく、エトルリア人社会に制度として固定していた貴族階級の血族集団を祀ったものです。したがって、一般人の生活はどうだったのかは想像するしかありません。エトルリア人社会における貴族の存在は、古代ローマにおける氏族(gens)とパラレルの関係にあり、おそらくその原型となったと思われます。エトルリア文明に先行するヴィッラノーヴァ文明ではこのような貴族の存在は見られません。

エトルリア人社会に貴族が生まれたのは、そこに富の集積があったからです。地下鉱物に恵まれたトスカーナにあって、エトルリア人は採鉱をおこない、金属、特に銅と鉄を地中海方面に輸出して富を得ます。遠くスエーデンでもエトルリアのブロンズが発見されていますし、鉱物と農産物を載せたエトルリアの船は地中海全域を航行し、おそらくマデイラ諸島(ポルトガル領)近辺の大西洋域まで達したと考えられています。こうしてイタリア半島と地中海におけるエトルリアの影響力が拡大していくと同時に、地中海を舞台に交易を展開していたフェニキアとギリシャとのあいだに摩擦が生じることとなります。

裕福なエトルリア人貴族が残した墳墓の多くは、熟練の技術によって地下に造られた大規模な空間で、大広間を模したそこには芸術的な装飾を施した豪華な石棺とともに、家具、贅沢品、宝飾品が納められています。世界遺産のチェルヴェーテリ(Cervetri)とタルクイーニア(Tarquinia)の墓地遺跡群の内壁に描かれた壮大な壁画は、生活にかかわる様々なテーマが主題になっていますが、よく繰り返されるのは宴会の情景です。これには二重の意味があって、ひとつは宴会それ自体が宗教的な葬儀式典の本来的な一部分になっていたという点です——葬儀の最後に親類縁者は死者の魂が出席する豪華な宴会に招かれる——。

さらにまたエトルリア人の日常の実生活にあって、宴会を催すことは、ありとあらゆる人に対して、宴会の主人がエトルリア人社会のエリートに値する地位に達したことを示す大きな象徴的意味を持っていました。そこではゲストとして招かれた社会的に高い身分の男女が、多くの召し使いにかしずかれて長椅子に横になり、エトルリアの名人が演奏する催眠的なしかし鋭く強烈なリズムに体を揺らしながら、音楽家とダンサーのもてなしを受けるのです。精巧な刺繍を施したテーブルクロスの上には様々なディナー・コースが用意され、精選された食材——マグロのような魚類、野うさぎや鹿や鳥などの肉類が皿にたっぷり盛られてました。イノシシは特に好まれていたようです。ぶどうはアラビア半島がそもそもの原産地ですが、紀元前9世紀頃、エトルリア人はぶどうとぶどう酒をイタリアに導入したと考えられています。






エトルリアのネックレス

紀元前5世紀〜4世紀。ペンシルベニア大学考古学人類学博物館所蔵。


宴会の光景

タルクイーニアの「ヒョウの墓」に描かれた宴会の光景。紀元前5世紀初頭。



二人の踊り手

タルクイーニアの「寝椅子の墓」に描かれた踊り手。二人は美しく着飾ってあの世への踊りを踊る。紀元前470年頃。



音楽家

同じくタルクイーニアの「寝椅子の墓」に描かれた音楽家。

女性の地位とセクシャリティ

エトルリア人社会は一夫一婦制であり、一対の夫婦が社会を構成する基本要素となっていました。多くの石棺の蓋の上を飾るカップルの彫像——人生の絶頂のなかで微笑みながら互いに肩と腕を組んで長椅子に横たわるカップルの彫像がその端的な証であり、夫婦の強い紐帯がエトルリア人の社会的選好としてあったことを物語っています。

一方、プラトンを含むギリシャとローマの多くの著述家は、エトルリア人を不道徳とみなしていました。後のローマでは、エトルリア人という言葉は売春婦とほぼ同意となり、ルクレティア自害の伝承が、エトルリアの解放された女性と比較して、いかにローマの婦人が貞節な妻の見本であるかを示す例として語られていたのです。

ギリシャの歴史家、キオス島のテオポンポス(紀元前380年〜)はエトルリアの女性と男性のふるまいについて次にように記しています。

妻を共有することはエトルリアでは認められた習慣である。エトルリアの婦人は体のケアに余念がなく、時には男性と連れ立って、時には自分自身で体を鍛える。裸を見られるのは彼女らにとって恥ずかしいことではない。夫ではなく、偶然居合わせた男性と長椅子を共にし、好みの誰にでも乾杯を呼びかけたりする。彼女たちは熟練のドリンカーであり、とても魅力的だ。

エトルリア人は、父が誰かを知ることなく、産まれたすべての子供を育てる。子供は両親の生き方を生き、しばしば飲酒パーティに出たり、あらゆる婦人と性的な関係を持ったりする。公然と何をしても、したことを見られても何ら恥ではない、それが生まれつきの習慣であるからだ。そうしたことを不名誉と考えるどころか、家のあるじに来客があって、あるじがその行為の最中の際には、彼らは猥褻な行為の名をあげつつ、あるじは何々をしていますと答えるのだ。

彼らは相手が高級娼婦であろうと夫婦間であろうと、性的な関係を持とうとする場合は次のように行動する。飲み終わった後、寝床に入る、ランプはついたまま、召し使いが高級娼婦、あるいは少年、時には妻をもさえ連れてくる。その交渉を楽しんだのち、少年を入れて性愛にふける。彼らは時々、公衆の面前で愛しあい性交渉に及ぶことがあるが、ほとんどの場合、寝台を小枝で編んだ仕切りで囲い、体の上に布をかぶせて行う。

彼らは女性と性的な交渉を持つことに熱心だが、特に好むのは少年と若者である。エトルリアの若者はとても美しい。それは彼らが贅沢に生活し、体をすべすべに保持しているからだ。事実、西の異邦人たちは松ヤニを使って脱毛し、体毛をそり落としているのである。

性的人間に好奇の眼差しがむけられるのは、時代を通底する人間の業にも思われるのですが、エトルリア人がエロスの(ほぼ無制限の)解放に寛容であったのは事実なのでしょうか。墳墓の壁画には異性愛、同性愛をそのまま描写したものが多数ありますし、墓から出土した陶器の多くにもエロティックなシーンが描かれています。性的行為がエトルリア人だけに独自だというわではまったくないわけですし、ある研究者は、裸体抱擁の描写は不運をかわす力があると信じられていたこと、それは魔除けの印として西洋文明に取り入れられ、最終的に航行船の、裸の女性の上半身を型どった船首像として現れている点を指摘しています。一般論として、死の力を(激しい)生の力によって覆したいというのは人間の本能的な欲求ですから、墳墓の壁画がそのまま普通の生活における習慣やしきたりを描写したものではありえないだろうということも指摘できます。

ギリシャ人やローマ人のエトルリア人に向かう態度は、おそらく、社会における婦人の地位についての誤解に基づいていたのでしょう。ギリシャと共和制ローマでは、まともな婦人は家庭に閉じこもり、異性間の社会的な接触は起こりませんでした。このため、エトルリア人社会における女性の自由な振る舞いが、彼女らの性的可用性を暗示するものとして誤解されと考えられるのです。そして、かなりの数の墓碑銘が[父]と[母]の息子[X]というかたちで記されていて、母系の重要性を示していることは注目に値します。






「盾の墓」の宴会の光景

タルクイーニア、紀元前340年。1870年に発見された「盾の墓」は4つの入り口を持つ大規模かつ複合的な地下墳墓で、その呼び名は、中の一室の壁が、おびただしい金の盾で飾られていたことに由来する。横になる夫とその足許に座る妻、彼女は右手に卵を持って夫に渡そうとする。両者の位置関係はエトルリアのしきたりであり、卵は復活のシンボルであった。


「フランチェスカ・ジュスティニアーニの墓」の壁画

タルクイーニア、紀元前5世紀頃。男性は左手に先が曲がった杖を持っている。この画像では見えないが女性の左に二輪馬車があり、おそらく女性は男性の二輪馬車を使っての出発に異議を唱えているのであろう。



「むち打ちの墓」の壁画

タルクイーニア、紀元前5世紀。呼び名は描写されたその光景から。



「雄牛の墓」の壁画

タルクイーニア、紀元前5世紀。性愛行為の人間と雄牛のペアの画像は左側対称位置にもあって、こちらは同性愛ではなく異性愛行為の人間とそれに背をむけて座る雄牛が描かれている。

エトルリアと古代ローマ

古代ローマの歴史家ティトゥス・リヴィウス(紀元前59年頃〜紀元17年)が著した「ローマ建国史」によれば、ローマはロームルスとレムスの双子の兄弟によって紀元前753年に建設されたことになっています。古代ローマは初代王ロームスルから7代続く王政を経て、紀元前509年からは選挙で選ばれた2名の執政官による共和政に移行し、ローマ帝国となる紀元前27年まで徐々に勢力範囲を拡大していきます。紀元前272年にはイタリア半島を統一、さらにポエニ戦争(紀元前264年〜紀元前146年)を経て、その覇権は地中海の沿岸諸地域へと及ぶことになります。

エトルリアはこの共和政ローマに吸収されるかたちで滅亡するわけですが、そこに至る都市国家としてのローマ発展の歴史は、エトルリアの影響下にあったローマというラテン人の都市の歴史であるというよりも、いわばエトルリア連邦という国家を構成する一都市の、その典型的な最も有力な都市の歴史であると捉えることが可能なのです。以下にその流れを展開してみましょう。

19世紀のドイツの歴史家テオドール・モムゼンはローマ建国について次のように書きました。「もちろん、伝説が想定するように、都市の建設が本当にあったのは疑いないが……ロームルスとレムスによる都市建設の話は古代の偽の歴史からなる無邪気な作り話以上のものではない……歴史家にとって肝要なのは、歴史だと称するこうした作り話をすべて取り除くことである」。

20世紀初頭になって、モムゼンのより早い時期の学説を裏付ける最初の証拠が発掘されます。パラティーノの丘の紀元前8世紀に遡る地層から小屋の支柱跡が発見され、さらに下の地層には紀元前2000年代はじめの原始的な居住跡がありました。エスクイリーノとクイリナーレのふたつの丘からも同様の村落跡が見つかります。紀元前7世紀初頭までに、丘上にあった家屋は斜面にも造られ始め、紀元前625年になって居住地はさらに外側に展開していきます。つまり居住地は、はじめて谷に広がっていくのです(ローマを形成する7つの丘に挟まれた谷、といっても平原のようなものですが、そこは湿地となっていて居住できない土地でした)。これは低湿地を排水した結果であり、エトルリアの土木工事の専門技術を働かせた証拠です。そして、この時代に関連するエトルリア特有の陶器であるブッケロの破片が、1963年にフォルム・ボアリウムの遺跡から発掘されています。

ローマの土地そのものはテヴェレ川の中洲、ティベリーナ島のそばに位置し、そこはラティウムとカンパーニャの都市国家へ頻繁に通うエトルリア人にとって便利な横断を提供する場所でした。証拠によって明らかなのは、紀元前575年頃、見慣れた原始的な居住地が突然変化したことです。丘のふもとにあった藁と葦で葺いた小屋の群れが消滅するのです。これは戦争や火事のせいではなく、周到に計画された建築計画によるものでした。スエーデンの考古学者、アイナル・イェルスタッドは「ローマの歴史にあって、この時点が、原始的な田舎風の集落から記念碑的な都会的な文化形態への変化をもたらした画期的な時なのは疑いない」と述べています。

ここから最初の50年間に湿地の排水を皮切りにして、組織化された都市の形成に向けて相当量の物事が進展していきます。広場(forum)はこの時期、砂利敷きの場所に過ぎなかったのですが、50年間を経たのちには都市の発展の中心となって、市街地はそこから驚くべき割合で放射状に広がっていきます。通りはエトルリアの作法にしたがって規則正しく配置され、下水は道路の下に敷設されていきます。伝説は紀元前753年をローマ建国の日としていましたが、紀元前8世紀ではなく、ローマが本当の意味で都市になったのは、おそらく紀元前7世紀の遅くになってからなのです。

初代王ロームルス(在位BC753年 - BC717年)、2代王ヌマ・ポンピリウス(同BC717年 - BC673年)、3代王トゥッルス・ホスティリウス(同BC673年 - BC641年)が実在の人物なら、彼らは村の指導者と変わらない存在であったでしょう。語られるような王国など彼らは持っていませんでした。古い藁葺の小屋の除去とエトルリアの作法にしたがった都市の建設は、最初のエトルリア人の王、タルクィニウス・プリスクス(同BC616年 - BC579年)が第5代の王位に就いて始めてなされるのです。

タルクィニウス・プリスクスは、エトルリアの都市、タルクィーニ(現タルクイーニア)に移り住んだギリシャ人の息子で、切断された頭部の幻影を見たという彼のエトルリア人の妻、預言者タナクィルの忠告に従って直ちにローマに引っ越します(その幻影はローマがイタリアの指導的存在なることを意味していたといいます)。ローマでは4代王アンクス・マルキウス(在位BC640年 - BC616年)の息子の後見人に指名され、アンクスの死とともに王位に就きます。

既述のように、タルクィニウス・プリスクスの即位に前後する紀元前625年から同575年にかけて、丘の間の湿地帯はエトルリア人技術者の手によって排水がおこなわれ、人々がそこに住み始めます。クロアカ・マキシマ(最大の下水)はこの時期に造られ、現在もなお使われています。紀元前575年までにエトルリアのローマは本当の意味で都市になり、土木工学、道路建設、上下水道の敷設の面で急速な進展を遂げることになるのです。

続く第6代の王、セルヴィウス・トゥッリウス(在位BC579年 - BC534年)もエトルリア人でした。王族に育てられた奴隷の息子という説もあるのですが、これは後に新しい共和制に採用される法律を作ったローマの偉大な改革者がエトルリア人であることを隠すための作り話と考えられています。

セルヴィウス・トゥッリウスの治世のあいだ多くの改革がなされています。なかでも特記すべきは軍の大改革です。もともと軍隊は貴族階級出身の馬上の戦士からなっていて、彼らは戦場で馬から降り、個々に敵とたたかうというのが当時の方法でした。鎧、武器やその他の器具類、一頭か二頭の馬を自分で用意できる裕福なものだけがエリート集団としての軍隊に参加できる資格があったのです。こうしたなかでセルヴィウス・トゥッリウスは徴兵を行い、兵士は鎧と武器だけを自前で用意し、ギリシャの重装歩兵のように、密集陣形へと組織化されます。戦争での密集陣形の成功は個人の英雄的行為よりも秩序立った共同作業によるものでした。

セルヴィウス・トゥッリウスは結局、彼の娘夫婦によって殺害され、娘婿のルキウス・タルクィニウス・スペルブス(傲慢王タルクィニウス)が義父の跡を継いで最後の王となります(在位BC534年 - BC509年)。彼は先代王の義理の息子であると同時に、先々代王タルクィニウス・プリスクスの息子あるいは孫とされる人物で、完全な独裁政治を行ったことから傲慢王タルクィニウスと呼ばれています。

傲慢王タルクィニウスはカピトリーノの丘にエトルリアの神々を祀る大寺院を建立したりしていますが、彼の時代には恐怖政治が続き、多くの元老院議員が殺害されました。このため、もうひとりのエトルリア系貴族であるルキウス・ユニウス・ブルトゥス率いる元老院議員の一団が反乱を起こします。そのきっかけは傲慢王の三男、セクストゥスによる貴族の婦人ルクレティアへの強姦事件でした。しかしほとんどの歴史家は、王政崩壊の本当の理由を王と指導的貴族との間の権力抗争による結果だと見ています。

タルクィニウス家はローマから追放され、ローマにおける王政は廃止となり、紀元前509年、貴族階級は共和政を打ち立てます。これがローマに特有の出来事だったわけではないことに注意する必要があります。エトルリアの他の都市国家においても、紀元前5〜6世紀に政体の変化を経験した痕跡が見られるのです。王は大地主となった貴族によって打倒され、一年交代の執政官による政府が導入されていきます。エトルリア共和国の政府についての詳細は何ら明らかになっていませんが、[zilath][maru][purthne]、これらの称号は執政官の長に関するものであることが立証されています。

共和政の樹立はローマが完全にラテン化された都市になったことを意味しませんでした。その後のおよそ50〜60年間、ローマは依然としてエトルリアのかなりの影響下にありました。相当数の貴族はエトルリアの背景を持っていて、反乱を指導したルキウス・ユニウス・ブルトゥスはそのひとりです。彼は、これもエトルリア人であるルキウス・タルクィニウス・コッラティヌスとともに、共和政最初の執政官に選ばれています。こうした状況は紀元前5世紀中葉まで続いていくのです。






Titus Livius

ティトゥス・リヴィウス(紀元前59年頃〜紀元17年)






Theodor Mommsen

テオドール・モムゼン(1817-1903)






紀元前8世紀頃のローマ地図






Einar Gjerstad (rightmost)

アイナル・イェルスタッド(1897–1988、右端)




































Tarquinius Priscus

タルクィニウス・プリスクス(在位:BC616年 - BC579年)









Servius Tullius

セルヴィウス・トゥッリウス(在位:BC579年 - BC534年)











Lucius Tarquinius Superbus

ルキウス・タルクィニウス・スペルブス(在位:BC534年 - BC509年)