エトルリアと古代ローマ
古代ローマの歴史家ティトゥス・リヴィウス(紀元前59年頃〜紀元17年)が著した「ローマ建国史」によれば、ローマはロームルスとレムスの双子の兄弟によって紀元前753年に建設されたことになっています。古代ローマは初代王ロームスルから7代続く王政を経て、紀元前509年からは選挙で選ばれた2名の執政官による共和政に移行し、ローマ帝国となる紀元前27年まで徐々に勢力範囲を拡大していきます。紀元前272年にはイタリア半島を統一、さらにポエニ戦争(紀元前264年〜紀元前146年)を経て、その覇権は地中海の沿岸諸地域へと及ぶことになります。
エトルリアはこの共和政ローマに吸収されるかたちで滅亡するわけですが、そこに至る都市国家としてのローマ発展の歴史は、エトルリアの影響下にあったローマというラテン人の都市の歴史であるというよりも、いわばエトルリア連邦という国家を構成する一都市の、その典型的な最も有力な都市の歴史であると捉えることが可能なのです。以下にその流れを展開してみましょう。
19世紀のドイツの歴史家テオドール・モムゼンはローマ建国について次のように書きました。「もちろん、伝説が想定するように、都市の建設が本当にあったのは疑いないが……ロームルスとレムスによる都市建設の話は古代の偽の歴史からなる無邪気な作り話以上のものではない……歴史家にとって肝要なのは、歴史だと称するこうした作り話をすべて取り除くことである」。
20世紀初頭になって、モムゼンのより早い時期の学説を裏付ける最初の証拠が発掘されます。パラティーノの丘の紀元前8世紀に遡る地層から小屋の支柱跡が発見され、さらに下の地層には紀元前2000年代はじめの原始的な居住跡がありました。エスクイリーノとクイリナーレのふたつの丘からも同様の村落跡が見つかります。紀元前7世紀初頭までに、丘上にあった家屋は斜面にも造られ始め、紀元前625年になって居住地はさらに外側に展開していきます。つまり居住地は、はじめて谷に広がっていくのです(ローマを形成する7つの丘に挟まれた谷、といっても平原のようなものですが、そこは湿地となっていて居住できない土地でした)。これは低湿地を排水した結果であり、エトルリアの土木工事の専門技術を働かせた証拠です。そして、この時代に関連するエトルリア特有の陶器であるブッケロの破片が、1963年にフォルム・ボアリウムの遺跡から発掘されています。
ローマの土地そのものはテヴェレ川の中洲、ティベリーナ島のそばに位置し、そこはラティウムとカンパーニャの都市国家へ頻繁に通うエトルリア人にとって便利な横断を提供する場所でした。証拠によって明らかなのは、紀元前575年頃、見慣れた原始的な居住地が突然変化したことです。丘のふもとにあった藁と葦で葺いた小屋の群れが消滅するのです。これは戦争や火事のせいではなく、周到に計画された建築計画によるものでした。スエーデンの考古学者、アイナル・イェルスタッドは「ローマの歴史にあって、この時点が、原始的な田舎風の集落から記念碑的な都会的な文化形態への変化をもたらした画期的な時なのは疑いない」と述べています。
ここから最初の50年間に湿地の排水を皮切りにして、組織化された都市の形成に向けて相当量の物事が進展していきます。広場(forum)はこの時期、砂利敷きの場所に過ぎなかったのですが、50年間を経たのちには都市の発展の中心となって、市街地はそこから驚くべき割合で放射状に広がっていきます。通りはエトルリアの作法にしたがって規則正しく配置され、下水は道路の下に敷設されていきます。伝説は紀元前753年をローマ建国の日としていましたが、紀元前8世紀ではなく、ローマが本当の意味で都市になったのは、おそらく紀元前7世紀の遅くになってからなのです。
初代王ロームルス(在位BC753年 - BC717年)、2代王ヌマ・ポンピリウス(同BC717年 - BC673年)、3代王トゥッルス・ホスティリウス(同BC673年 - BC641年)が実在の人物なら、彼らは村の指導者と変わらない存在であったでしょう。語られるような王国など彼らは持っていませんでした。古い藁葺の小屋の除去とエトルリアの作法にしたがった都市の建設は、最初のエトルリア人の王、タルクィニウス・プリスクス(同BC616年 - BC579年)が第5代の王位に就いて始めてなされるのです。
タルクィニウス・プリスクスは、エトルリアの都市、タルクィーニ(現タルクイーニア)に移り住んだギリシャ人の息子で、切断された頭部の幻影を見たという彼のエトルリア人の妻、預言者タナクィルの忠告に従って直ちにローマに引っ越します(その幻影はローマがイタリアの指導的存在なることを意味していたといいます)。ローマでは4代王アンクス・マルキウス(在位BC640年 - BC616年)の息子の後見人に指名され、アンクスの死とともに王位に就きます。
既述のように、タルクィニウス・プリスクスの即位に前後する紀元前625年から同575年にかけて、丘の間の湿地帯はエトルリア人技術者の手によって排水がおこなわれ、人々がそこに住み始めます。クロアカ・マキシマ(最大の下水)はこの時期に造られ、現在もなお使われています。紀元前575年までにエトルリアのローマは本当の意味で都市になり、土木工学、道路建設、上下水道の敷設の面で急速な進展を遂げることになるのです。
続く第6代の王、セルヴィウス・トゥッリウス(在位BC579年 - BC534年)もエトルリア人でした。王族に育てられた奴隷の息子という説もあるのですが、これは後に新しい共和制に採用される法律を作ったローマの偉大な改革者がエトルリア人であることを隠すための作り話と考えられています。
セルヴィウス・トゥッリウスの治世のあいだ多くの改革がなされています。なかでも特記すべきは軍の大改革です。もともと軍隊は貴族階級出身の馬上の戦士からなっていて、彼らは戦場で馬から降り、個々に敵とたたかうというのが当時の方法でした。鎧、武器やその他の器具類、一頭か二頭の馬を自分で用意できる裕福なものだけがエリート集団としての軍隊に参加できる資格があったのです。こうしたなかでセルヴィウス・トゥッリウスは徴兵を行い、兵士は鎧と武器だけを自前で用意し、ギリシャの重装歩兵のように、密集陣形へと組織化されます。戦争での密集陣形の成功は個人の英雄的行為よりも秩序立った共同作業によるものでした。
セルヴィウス・トゥッリウスは結局、彼の娘夫婦によって殺害され、娘婿のルキウス・タルクィニウス・スペルブス(傲慢王タルクィニウス)が義父の跡を継いで最後の王となります(在位BC534年 - BC509年)。彼は先代王の義理の息子であると同時に、先々代王タルクィニウス・プリスクスの息子あるいは孫とされる人物で、完全な独裁政治を行ったことから傲慢王タルクィニウスと呼ばれています。
傲慢王タルクィニウスはカピトリーノの丘にエトルリアの神々を祀る大寺院を建立したりしていますが、彼の時代には恐怖政治が続き、多くの元老院議員が殺害されました。このため、もうひとりのエトルリア系貴族であるルキウス・ユニウス・ブルトゥス率いる元老院議員の一団が反乱を起こします。そのきっかけは傲慢王の三男、セクストゥスによる貴族の婦人ルクレティアへの強姦事件でした。しかしほとんどの歴史家は、王政崩壊の本当の理由を王と指導的貴族との間の権力抗争による結果だと見ています。
タルクィニウス家はローマから追放され、ローマにおける王政は廃止となり、紀元前509年、貴族階級は共和政を打ち立てます。これがローマに特有の出来事だったわけではないことに注意する必要があります。エトルリアの他の都市国家においても、紀元前5〜6世紀に政体の変化を経験した痕跡が見られるのです。王は大地主となった貴族によって打倒され、一年交代の執政官による政府が導入されていきます。エトルリア共和国の政府についての詳細は何ら明らかになっていませんが、[zilath][maru][purthne]、これらの称号は執政官の長に関するものであることが立証されています。
共和政の樹立はローマが完全にラテン化された都市になったことを意味しませんでした。その後のおよそ50〜60年間、ローマは依然としてエトルリアのかなりの影響下にありました。相当数の貴族はエトルリアの背景を持っていて、反乱を指導したルキウス・ユニウス・ブルトゥスはそのひとりです。彼は、これもエトルリア人であるルキウス・タルクィニウス・コッラティヌスとともに、共和政最初の執政官に選ばれています。こうした状況は紀元前5世紀中葉まで続いていくのです。 |