都市の哲学 田村敏久・著

もちろんそういえるのは用途地域が現実からの抽象にすぎない場合だけですから、そのことを証明しておかなければ片手落ちになります。

用途地域がそれぞれの都市でじっさいにどのように指定されているか、この現場を把握すれば住居地域(1992年の改正でこの名称の用途地域はなくなりましたが)なら現に住居の密集している地域に、商業地域なら現に商店が密集している地域に、工業地域なら現に工場が密集している地域に指定される以外にないことが明らかになりますから……たとえば住居地域に指定したから住居が密集しているわけではなく、真実はその逆であることを見抜くことが重要です……、用途地域が現実からの抽象にすぎないことは明快なのですが、いまは理論的な面から真相に迫ることにしましょう。

用途地域がほんらいのルールに位置づけられるものなら、ルールとして生まれる基盤となる理想の都市が明示されていなければなりません。その有無を調べることが間接的ながら証明になります。また、現実からの抽象にすぎない用途地域をふたたび現実にあてはめるとなれば、そこに論理の不整合が不可避的に招来されます。不必要を必要といいくるめるには解消されない無理があるからです。この点を調べることも、その間接的な証明になります。

べつに疑い深くなって細部を点検するまでもなく、こうした点は簡単に露顕してきます。用途地域がいかなるものなのか、都市計画法しめされた定義を調べてみましょう。といってもその無内容さは目を覆うばかりですから、そのいちいちを書き写すのはばからしいのでよします。本文を知りたいかたは直接、都市計画法にあたってください。そこには何のために用途地域を定めるかがしめされていますが、まず特徴的なのは、住居系の7つの用途地域のすべてが「住宅の…(住)環境を保護するため」となっていることです。

ここにすでに亀裂があらわれています。しかもその亀裂はもはや修復不可能です。自然環境ならいざしらす、都市の人間の環境は保護されるべき対象として存在していません。それは都市に居住する人間たちの協同によってはじめて獲得されるべき対象であって、ありうべき都市計画は、まさにその人間たちの協同の方法を明示するものでなければならないはずなのです。

なにを血迷ってこれほど自明なあやまちを犯してしまったのか。そこには、たんに言葉の綾として済まされない本質的な問題がひそんでいます。それはつまり、理想の都市をえがくという都市計画にとって本質的な課題と直面するのを避け、あまりにもナイーブに都市の環境に言及してしまったということ、もっとうがった見方をすれば、理想の都市をえがくことなどより現実の都市をそのまま展開することが一番の関心事となって、その潤滑油として環境という言葉を口にしてみたにすぎないということです。これが推測の域をでないのものかどうかは現状の都市を反省してみれば明らかであるはずです。

これはおのずと用途地域全体の話に発展していきます。12種類の用途地域は都市計画法での定義のされかたによって、上記の住居系の7種類と商業系と工業系の5種類に大別されます。商業系と工業系では、その目的は「(店舗等、商業等の業務、工業の)利便を増進するため」というかたちに整理されています。たかが用途地域ごときの指定によって産業の利便が増進されるとは信じがたいことですが、その唯一の方法はそれら用途の建物を制限しないという以外にありえないはずだという予想が的中していることは、建物用途の具体的な制限を調べれば明らかになります。しかし、いまはこの点にはふれないでおきましょう。

この意味するところは、用途地域制度の基本的な考えかたは、都市の全体を「住宅の環境を保護する」地域と「産業の利便を増進する」地域のふたつのカテゴリーに分けるということです。そうであるなら、前者は「産業の利便を増進しない」地域であり、後者は「住宅の環境を保護しない」地域であると表現されてもおかしくありません。べつに皮肉っているわけではありません。言葉の使いかたと、言葉を使っての作業の全体を見通すとき、そういわなければ人間は自己を点検できないということにすぎません。つまり、用途地域は「住宅の環境を保護」し、また「産業の利便を増進」しようとして、都市の全体を「産業の利便を増進しない」地域と「住宅の環境を保護しない」地域に大別しようとするものです。

ここをはっきり押さえたなら用途地域制度はもろくも瓦解してしまいます。要点は住宅にあります。郊外の住宅団地のような方法が住宅が存在する普遍的なかたちではまったくありません。住宅こそ人間にとってもっとも基本的な生活の入れ物ですから、人間が生活を営むすべての場所に住宅がなければならないのは自明です。したがって、大型工場団地のような特別な地域をのぞいて、都市のすべての場所に住宅が存在すると考えなければなりせんし、またそれが都市の実態にほかならないわけです。

そして重要なのは、都市のすべての場所に住宅が存在する事実をだれも無視したり否定できないということです。じじつ、用途地域制度は工業専用地域を除いて、ということは事実上都市のすべての場所で住宅の存在を認めています。これがごく自然な確実なことであるとしても、ここに立脚すれば、つまり自然で確実な事実に立脚すれば、ただちに用途地域の矛盾は噴出してきます。

都市のすべての場所に住宅が存在する事実を認めながら、「住宅の環境を保護」しようとして「住宅の環境を保護しない」地域をさだめるというのが用途地域です。どこがどう矛盾しているか、あらためて説明するまでもないほどですが、だから用途地域ははじめから「住宅の環境を保護」しようとしてなんかいなかったと断定してかまわないのです。なんたることでしょう。

都市の住宅の環境を取り上げようとすれば、住宅が都市のすべての場所に存在することが避けられない以上、都市そのものの形成にかかわる都市の普遍的な問題に発展していきます。ここが明らかにされないうちは都市の住宅の環境について口をだすことさえできないのというのが実情なのですが、用途地域を考え出した人間は郊外に展開される住宅の集中する地域をみて、そこで住宅の環境は保護されるべきだと考えたのにちがいありません。(ですから、用途地域は現実からの抽象にまちがいないのです)。

そうした郊外に展開される地域は用途地域が実現したすがたではありませんし、用途地域が実現すべき対象であるのかさえもほんとうは分明ではないのです。はっきりしているのは、それは自由経済のものと、建物の需要と供給という人間の自然な活動の結果として現出しているということ、またそれだけです。人間の自然な活動の結果として現出している場所であろうと、そこでの環境を問題するのは人間の自然な態度といえますけれども、そうしているうちは人間は都市の現実にしたがうほかありません。

私たちとしては、都市を根底から捉えたすえにえられる理想の都市からの要請にしたがうことがもとめられているのです。

 

プロフィール