都市の哲学 田村敏久・著

現状の用途地域制度が用途地域といいながら、ほんとうは建物用途の制限を禁じられた制度であることを指摘しましたが、その理由を説明しなればこれまでの検討が説得力を欠くことが懸念されますので、ここでごく簡潔にふれることにします。

都市計画法にしめされる用途地域の種類は増える一方で、最初(1950年)は4種類だったのが、その後の二度(1970年と1992年)の改正で12種類まで増え、専門家でさえその名前を覚えるだけでも大変という奇妙としかいえない現象がおきています。奇妙なのは、私たちの現実のありさまに不明なところはまったくないのに、都市の現実を実践の対象とする用途地域が一般人にはもとより、専門家にたいしても不明なのはなんとしても理屈にあわないからです。理屈にあわないのは、現行の用途地域がほんとうは都市の現実を実践の対象に据えていないからではないかと考えるの自然です。

話をすすめるまえに用途地域制度の内容を簡単に説明します。用途地域とは、たとえば住居地域とか商業地域とか工業地域とか呼称されるもので、都市計画法に12種類の用途地域がしめされ、それぞれの用途地域での建物用途の制限内容は建築基準法にしめされています。市街地にはどれかひとつの用途地域をかならず定めなければならず、建物を建てるときには建築基準法にしたがって建物用途が制限されます。これが用途地域ほんらいの働きといえますが、付随的と思われていながら本質的に重要な点は、用途地域には建物面積を容積率(建物床面積÷敷地面積)というかたちで制限する機能があたえられているということです。

そこで現行の用途地域の問題点をずばり言えば、それは現実からの抽象にすぎないのではないかということです。現実からの抽象とは、現実のなかに発見される特徴的な一部分を切り取って、それを何々のようなものと手短に説明することです。そうであれば、現実を切り取る方法のいかんによって、用途地域を増やすのも減らすのも、簡単にできてしまうことが理解されるはずです。このことは、都市の現実を置き去りにして用途地域の種類がかくも簡単に増えつづける現状を説明する有力な証拠となるものです。

用途地域が現実からの抽象にすぎないということから帰結される重要な点は、用途地域は建物用途を制限することをはじめから禁じられているということです。なぜなら、現実からの抽象にすぎないものを現実にあてはめるにあたって、最初の現実に戻す以外にないからであり、それをまちがえると誰も申し開きができないからです。しかしそれよりも、ここに都市あつかううえでの本質的な転倒がひそんでいるのを見て取ることができるはずです。

ルールとなるすべてについて共通の事態ですけれども、用途地域のようなものがあるとすれば、それは現実の都市ではなく、理想の都市からの抽象としてしかありえないはずです。理想の都市を描いて、理想の都市と現実の都市の落差を埋めようとするところにはじめてルールが生まれます。理想の都市を描く作業を先導するのがデザインストラクチャの役割であるわけですが、都市のルールの基盤はそこにしかありえませんし、ほんらい理想の都市が描かれていないところにルールもまた必要がないはずなのです。

現行の用途地域が現実からの抽象にすぎないことは、理想の都市が描かれていないことの端的な帰結にほかなりませんが、それなら用途地域は不要であるはずなのに、制限する側、制限される側の双方から用途地域が珍重されている現実はいったいどうしたことでしょう。

それは建物用途を制限することによってではもちろんありえません。さきほど説明しましたが、用途地域には建物用途を制限する働きのほかに建物面積の限度をしめす機能があったことを思い出してください。つまり用途地域が珍重されているのは、もっぱら容積率というかたちで建物面積の限度をしめすことによってであり、それは自由経済のもとでは容積率が土地を活用するうえでもっとも重要な指標にほかならないからです。

それならどうなるか、ここではこれ以上詮索するのはやめにしますが、建物需要が増大する成長する都市にあっては都市の現実をわすれて、もっぱら政治と市場のゲームが展開されることになるのは必定ですし、停滞ないし衰退する都市にあっては用途地域は無用の長物となります。

 

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