岩井論文

   
 未来世代への責任

岩井 克人 東大教授  

 私は経済学者です。そして、経済学著とは現代において数少ない「悪魔」の一員です。
 人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとること——それが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。
 経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。
 経済学著の「悪魔」ぶりがもっとも顕著に発揮されるのは、環境問題に関してでしょう。多くの人にとって、資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源です。環境破壊とは、私的所有制の下での個人や企業の自己利益の追求によって引き起こされると思っているはずです。
 だが、経済学者はそのような常識を逆撫でします。私的所有制とは、まさに環境問題を解決するために導入された制度だと言うのです。かつて人類は誰のものでもない草原で自由に家畜を放牧していました。家畜を一頭増やせは、それだけ多く肉や皮やミルクがとれます。草原は誰のものでもないので、家畜が食べる牧草はタダです。確かに一頭増えれば他の家畜が食べる牧草が減り、その発育に影響しますが、自由に放牧されている家畜の中で自分の家畜が占める割合は微々たるものです。それゆえ、人々は草原に牧草がある限り、自分の家畜を増やしていくことになります。その結果、牧草は次第に枯渇し、いつの日か無数の痩せこけた家畜がわずかに残された牧草を求めて争い合う事態が到来することになると言うのです。
 これこそ「元祖」環境問題です。そして経済学者は、それは、自然のままの草原が誰の所有でもない共有地であるがゆえの悲劇であると主張します。環境問題とは「共有地の悲劇」だと言うのです。
 事実もし草原が分割され、その一画を牧場として所有するようになると、その中の家畜はすべて「自分」の家畜となります。その時さらに一頭飼うかどうかは、その一頭が新たに牧草を食べることによって、牧場内の他の家畜の発育がどれだけ影響を受けるかを勘案して決めるようになるはずです。もはや牧草はタダではありません。他人に牧場を貸したり売ったりする時でも、その中の牧草の価値に応じた賃料や価格を請求するようになるはずです。牧草は合理的に管理され、共有他の悲劇から救われることになります。私的所有制の下での自己利益の追求こそが環境破壊を防止することになると言うわけです。
 「悪魔」の一員だけあって、経済学者の論理は完璧です(私自身この論理を30年間教えてきました)。実際、1997年の地球温暖化防止に関する京都議定書は、この論理を取り入れました。先進諸国に温暖化ガスの排出枠を権利として割り当て、その過不足を売買することを条件付きで許したのです。
 ここでは温暖化ガスが汚染する大気は家畜が食べ荒らす牧草に対応し、各国が売買しうる排出枠は牧畜家が所有する牧場に対応しています。すなわち、それは大気という自然環境に一種の所有権を設定することによって、それが共有地である限り進行していく温暖化という悲劇を解決しようとしているのです。
 では、これで環境問題はすペてめでたく解決するのでしようか?
 答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。
 それは「未来世代」の環境です。
 地球温暖化が深刻であるのは、各国間の利害が対立しているからではありません。未来と現在の二つの世代の間の利害が対立しているからなのです。未来世代を取り巻く自然環境が現在世代によって一方的に破壊されてしまうからなのです。
 もちろん経済学者の論理にしたがえば、この問題も未来世代に未来の環境に関する所有権を与えることによって解決されるはずです。未来世代は未来の環境が受ける被害に応じた補償額を現在世代に請求するようになり、現在世代はその費用を考慮して環境破壊的な経済活動を自主的に抑えるようになるからです。
 だが、ここに根源的な問題が浮かび上がります。未来世代とはまだこの世に存在していない人間です。タイムマシーンにでも乗らない限り、未来世代が現在世代と取引することは論理的に不可能なのです。
 唯一可能な方策は、現在世代が未来世代の権利を代行することです。だがそれは利害関係の当事者の一方が同時に他方も代理して取引するという、まさに利害の相反する状況を作り出してしまいます。現在世代が自己利益を追求している限り、未来世代の利益を考慮して、自分自身と取引することなどありえません。
 とうとうわれわれは、私有財産制によっては解決不可能な問題に行き当たってしまったのです。未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。
 どうやら私は「悪魔」の一員として失格したようです。経済学者の論理を極限まで推し進めた結果、その論理が追放してしまったはずの「倫理」なるものを再び呼び戻す羽目に陥ってしまったからです。
 だが京都議定書の批准をめぐる最近の混乱は、まさにその「倫理」こそ地球上で最も枯渇した資源であることを思い出させてくれました。環境問題が真に困難な問題であることを結果的に指し示すことになったという意味では、私も立派に「悪魔」としての役割を果たしたと言えるのかもしれません。

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