街路研究会

Osaka(11/16)→Bari(11/16-18)→Ostuni(11/18-20)→Lecce(11/20-22)→Martina Franca(11/22-25)→Alberobello(11/25-28)→Bari(11/28-29)→Osaka(11/30)

Google maps
プッリャ州の歴史

マルティーナ・フランカ Martina Franca

 マルティーナ・フランカ(以下、マルティーナ・フランカの旧市街地を指します)は2度目の訪問となります。すでに何度か書きましたが、バーナード・ルドフスキーの著作に触発された1982年夏の最初の訪問では、暑さのせいではないでしょうが、そこはまるで遊園地のように感じられたものです。改めて町名の由来も含め、マルティーナ・フランカの歴史を繙いてみました。(以下はウイキペデイアwww.martinafrancatour.itを参照しています)。
 マルティーナ・フランカの起源は、サラセンの侵入によりターラントから逃れてきた避難民の一団が、聖マルティーノ山に小さな村を建設した10世紀に遡る。一方、法的な町建設は14世紀に始まる。1310年、ターラント王のフィリポ・ダンジュー(アンジュー家フィリップ1世)は、町への移住者に土地を無償で与えるなど、住人にいくつかの免税特権を付与し、もって町勢を拡大させていった。このため町は形容詞「フランカ」(franca = free)を付けて呼ばれ、「マルティーナ」はこれと違ってフランス騎士団の守護聖人、聖マルティーナ(トゥールのマルティヌス)に由来している——すなわち「マルティーナ・フランカ」=「tax free のマルティーナ」——。
 (1310年にマルティーナ・フランカと呼ばれることになった町は、次第に免税特権を失い、数世紀にわたって町名から「フランカ」は消えていくが、イタリア統一後の1871年になってふたたび、町は「マルティーナ・フランカ」に改名される)。
 15世紀になってマルティーナ・フランカはアラゴン家の封土となり、16世紀にはナポリの貴族、カラッチオーロ家の公爵領となる。1646年、マルティーナの住民はカラッチオーロ家に反旗を翻すものの、町は1827年まで彼らの領地に留まった。18世紀になって町はその壮麗な時を迎える。特に農業と牧畜により経済活動が拡大し、都市化した居住地は古い町の中心部に新しい非凡な様相をあたえるようになった。1799年、共和主義的な暴動のなかで、町は自由主義の思想を採択、それはイタリア統一の1861年まで続いた。
 マルティーナを形容する「フランカ」が(筆者の予断に反して)実利面からであるがごとく、今回の印象はきわめて確固としたもので(抜き差しならない現実が営まれているからにはそれは当然のことだったわけですが)、町は約30年間に着実に進化していました。進化といっても再開発が行われたというわけではなく、基本は補修、建物外壁面についてはもちろんのこと、大きいのは路面の整備です。内部外部を問わず空間構成上、床の仕上げがきわめて重要な役割を果たしていますが、前回アスファルトを被せていたところは石畳に復元され、路面全体の敷石の新陳代謝が進んでいました。空間の外形をいじらずにマルティーナ・フランカはより深い味わいの町に進化していたのです。これは現代において奇跡的なことのように思われます。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影の月・日・時・分(現地時刻)を表示しています。